僕はグラウンドに立っている。おそらく、グラウンドに立っている。
 赤い空がぐるぐると回っているようで、空気が僕を中心に渦巻いている。
 なにもない空間を僕は掴む。なにもないように見える空間には、さまざまなものが雑多に存在している。
 想像すると恐ろしいほどだ。
 酸素を始めとするさまざまな気体の分子、気体化した水の分子、電波、音波、電磁波、気が遠くなるほど多くの種類の細菌…その中には病原菌も含まれている…花粉や胞子といった植物の生殖細胞、そして無数の塵。
 塵と一口に言うが、無論、その内容も一様ではない。
 鉱山の微粒子である土埃を始め、繊維状のさまざまな綿埃、枯死した植物の残骸、多くは有害であるところの化学物質の塵芥、鳥の羽、動物の産毛、干からびて破片と化したさまざまな生物の死骸や排泄物、角質化して剥がれ落ちた人間の皮膚…。
 カラッポに見える空間には、そうした無数のものどもが、隙間なくみっしりと詰まっている。
 そう思って夕空を見上げていると、あらゆる繊細な物質が、不可視の物質が、すべて実在として目に見えてくる。
 そんな中で、僕らは生きているのだ。
 そんなものを呼吸し、全身に浴びながら僕らは生きているのだ。
 悪意のある微生物たちのアタックを受け、さまざまな意味や指令や主張を載せられた電波に物理的に射抜かれ、それでも僕らは生きているのだ。
 僕はグラウンドに立っている。どうやら、グラウンドに立っている。
 不安は…ない。
 まったく、完全に、ニュートラルな精神状態。
 微かな幸福感さえ感じている。
 白い世界。
 色はある。渦を巻く極彩色の色が見える。けれど、世界は真っ白だ。
 「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 僕は大声で叫ぶ。
 正体のわからない衝動に駆られて。
 「があああああああぁぁぁぁぉあぁっ!!」
 僕はさらに大声で叫ぶ。
 とても冷静だ。使命感と、至って論理的な焦燥感だ。
 僕を中心に回っている夕刻の大気の渦が、その回転を加速させていく。
 夕日は悪意を持って僕を照らすが、怖くはない。決して怖くはない。
 校舎に取り付けられた大きな時計は時を示さない。
 時は示さず、2本の針の角度を微妙に調整し、僕に複雑な指令を送って来ている。
 僕はその指令に頷く。
 「僕のなすべきこと…」
 僕は小声で呟き、それから、時計に向けて複雑なブロックサインを返す。
 おそらく時計はその意味を理解することだろう。
 僕は僕のなすべきことがある。カタを付けなければならないことがある。
 「僕のなすべきこと…」
 僕は小声で呟き、それから、空気の渦に合わせて身体を回転させる。
 僕はいっぱい裏切ってきた。僕はいっぱい見殺しにしてきた。
 僕はぐるぐると回る。
 平穏だ。
 怒りがない。
 哀しみがない。
 喜びがない。
 もう終わりにしよう。
 僕はぐるぐると回る。
 終わりに…しよう。
 
 僕は夕空を見上げる。
 夕空は…はっきりとその暗さを増している。
 陽が落ちる。
 帳が下りる。
 夜がやってきて、今日という日が終わる。
 とうとう、終わる…。
 これですべてが…。
 すべてが…。
 終わる…。
 僕は高らかに笑う。
 僕はさめざめと泣く。
 さあ、帰らなきゃ。
 僕にはもうすることがない。
 だから…今度こそ本当に、帰ろう。
 おうちに帰ろう。
 おうち?
 おうちは…ないよ。
 じゃあ、どこ帰ればいいの?
 僕には帰るところがないの?
 帰るところが…。
 とりあえず…目の前に見える大きな建物に入ろう。
 そうだ。僕はここにいる。そしてこの建物に入る。
 見なれた灰色の建物…なんの意味もない建物。
 なんの意味もない…。
 嫌だ。
 意味がないのは嫌だ。
 することがないのは嫌だ。
 僕にはなんの意味もない。
 僕にはなんにもすることがない。
 死にたいほど憂鬱だ。
 でも、死ぬ理由さえ見つからない。
 嫌だ。
 意味がないのは嫌だ。
 するべきことがないのは嫌だ。 
 死ぬべき理由がないのは嫌だ。
 僕には意味が…。
 僕には…。
 僕は…。
 僕…。
 僕は…。
 僕は…誰なんだろう?
「さよなら…」
 …。
「さよなら…」
 …誰だ?
「さよなら…」
 どうして…。
「さよなら…」
 …。
「さよなら…」
 いつか聞いた言葉…。
「さよなら…」
 いつも聞いた言葉…。
「さよなら…」
 僕が聞きたかった言葉…。
「さよなら…」
 僕が望んでいた言葉…
「さよなら…」
 最後の言葉…。
「さよなら…」
 最期の言葉…。
「さよなら…」
 彼女の唇はさよならのカタチをえがいて、こわばる。