「晴れ時々夕暮れ」

今日の終わりを告げるチャイムが鳴ってからどれくら経っただろう。
橙色の陽が差し込んでは、今日の名残のように教室を照らす。
既に誰もいない空間に取り残されたように、席に着く俺。
後ろ髪を引かれるように今日に限ってここに残っていた。

「大体何があるってわけじゃない…」
一人呟いてみては、響く自分の声に興味を示した。
趣が無いとは言えなくも無い。
放課後の教室に残された主人公にはいつも何かが起こる。
少なくとも俺の知っている物語では、そんなセオリーがあった。
とは言え…
そんな浪漫を信じるほど俺は幼稚な人間だったのだろうか?

現実は現実でしかない。
日常と言う退屈な毎日に慣れてしまった俺には、既に解りきった事実だった。
それでも今、俺がここにこうして居ると言う現実は…
「いったいどんな酔狂やら…」

時計の針が刻々となめらかに進んでいく。
授業中は時折止まってるんじゃないかとも思うが、
今はそんなことも無く、今日と言う日の余命を楽しんでいるように見えた。

…ガラガラガラ。
静けさの漂う教室に突如、騒音が響く。
扉を開けた者は、見せ付けられた思いもよらない情景に固まっている。
「……あ、まだ残ってたんだ」
しかしその硬直もすぐ解けたように、彼女は口を開く。
「どうしたんだ、こんな時間に…?」

「それはこっちの台詞でしょ?
 私はただ忘れ物を取りに来ただけだもの…」
彼女は少し苛立ちを感じたようにそう言うと、ずけずけと俺の空間に入り込んで来る。
「……………」
「…何か言ってよ、間が持たないでしょ?」
「あぁ…悪い」
俺は心にも無い謝罪を述べると、再び彼女の動向を見つめた。

「で…何してたの?
 えっと……佐藤君………だっけ?」
「クラスメートの名前くらい覚えておけよな…
 佐藤と言えば当たるとでも思ったのか?」
 俺は明らかに人の名前を覚えて無さげな彼女に毒づいた。
「折角、人が勇気を出して名前も知らないようなあなたと
 会話してあげたのに、それはないんじゃない?」
「ん…まぁそうかもな……悪かった。」
俺は彼女の言葉を納得できないまでも、反論も浮かばなかったので、
素直に謝ることにする。

「で…?」
「で……とは?」
「あなたの名前、折角こんな機会なんだから覚えてあげるわ」
彼女の言葉はとても初対面の人間に言うような台詞ではないと思いながらも、
それが彼女の味と納得して、流すことにした。
「俺は、仁村だ。…鈴木さん」
「…私は高橋です……」
お返しに適当に彼女の名前を呼んでみたが、やはり外れたようで、
彼女はしぶしぶと自分の名前を名乗った。

「それで、仁村君は何で残ってるの?」
「さぁ…?」
「さぁ…って……ちゃんと答えてよ」
「別にあんたに言う必要は無いだろ?
 俺たちは先刻まで名前も知らないような関係だったんだからな」
よくもここまで狡猾に喋れるもんだと、自分の事ながらに少し驚いた。
「まぁ、そうよね…
 教室に残っていれば何か不思議なことがあるんじゃないかと思った。
 俺はだから残ってるんだ…
 とか、言われなかっただけ良かったと思うことにするわ」
「何だよそれは…」
「こんな時間にきちんと席について、一人で教室に残ってる。
 夕日が差し込む教室で、今日の名残を感じている。
 これがレトロな物語の描写じゃなければなんだって言うの?」

彼女の言うことは、いちいちもっとも過ぎて何も言い返せなくなる。
俺自身、なぜこの教室に残っているのか解っていないと言うのに、
他人である彼女にここまで言われると、少し癪なものだと思った。
「別に、あんたには関係ないことじゃないか…」
「そうよね、関係ないことだわ」
彼女は俺への興味を半ば失うと、本来の目的である忘れ物探しを始めた。
俺は自分の空間に干渉されているようで、先刻までの幻想的な考えやら
浪漫的な発想は浮かんではこなかった。

「突然だけどさ、仁村君は幽霊って信じる?」
「…は?」
突拍子も無い彼女の言葉に、俺は疑問符を問いかけた。
「幽霊、知ってるでしょ?
 あの、おどろおどろしい奴…」
彼女はそう言って舌を出しながら両手を前に出し、陳腐なお化け屋敷に居る
幽霊のような真似をしながら、俺の方を向いた。
「まぁ…知ってはいるけど。
 それがどうかしたのか?」
「別に、聞いてみただけでしょ…?
 で、信じてるの?信じてないの?」

「信じているかどうかと聞かれれば、信じていないな。
 俺は目に見えるもの以外は信じないんだ」
「じゃあさ、もし目の前に幽霊がいるとしたら、信じるの?」
「それは解らない、そんなの現実に起こらないからな」
「…何よ、じゃあ結局信じてないって事じゃない」
「まぁ、この歳になればその手の類が現実的じゃないことくらい
 嫌でも解るもんだ」
「大して生きてもないくせに、視野狭窄なのねぇ」
彼女は面白くなさそうに呟いた。

「じゃあ、高橋は信じてるのか?」
「…何を?」
「その幽霊とやらをだよ…」
わざとらしくとぼける彼女に少し呆れながら言う。
「…私は目に見えるもの以外は信じてないの。
 まぁ本当に居るなら、科学界に革命が起きそうだけどね」
「なんだよ、あんたも結局信じてないんじゃないか…」
自分の言葉をそのまま返されたような彼女の回答に反論した。
「別に幽霊を信じてないとは言ってないわ。
 もし目の前に居たら、私は信じるかもしれない…」
「意外とロマンチストなんだな」
「あなたに意外って言われるほど、親しくもないけどね」

彼女は忘れ物を探す手を止めた。
「あれ…やっぱりここには無いみたい」
「何を探してたんだ?」
「…幸せ」
「は?」
「嘘よ、冗談、イッツアジョーク」
「3回も言わなくても解るっての…」
彼女は誇らしげな顔で俺の方を見ていた。
それほど素晴らしいジョークだとは思えなかったが…

「…で、何で幽霊なんだ?」
今更と思いながらも、、会話を取り戻すために彼女に問いかけた。
「別に…意味は無いつもりだけど」
「まぁ、取り留めの無い会話としては合格点かもしれないな」
「合格点…?」
「別に親しくも無い間柄でする会話としては、理知的な感じがするし、
 どう答えるかによって、相手がどんな考え方をする人間なのかも解り易い…」
「…そこまで考えたつもりは無かったけどね」
彼女は謙遜なのか本心なのかは解らないが、そっぽを向いてそう言った。

「で、いいのか帰らなくて…
 忘れ物は見つからなかったんだろ?」
 ここに居る目的を失ったはずの彼女に俺は問いかけた。
「えぇ、別にいいわ…
 あなたが帰ったら帰ることにする」
「何だよそれは…」
「別に…意味は無いんだけど」
彼女はそう言いながら、自分の席に腰掛けた。
どうやら彼女の言葉は本気らしい。

放課後の教室で何の用事もなく、二人の男女が席についている。
こんな異様な状況を今は楽しむことにした。
楽しむ…?
別に楽しいことなんて無いのだが、なんとなく心地よく感じた。

「あ、私一つ嘘ついてた…」
「…嘘?」
彼女は静けさが充満するのを待っていたかのようにそう切り出した。
「意味はあったんだ…」
「なんの意味だよ?」
「私がここに来た事、あなたと話した事、ここに居る事、全部」
「差し支えなければ教えてもらえないか…?
 その意味とやらを」
俺は少しだけ躊躇しながらも言った。
彼女の雰囲気が今までの様子とは明らかに違っていたから…

夕日が差し込む角度を変える。
それはまるで舞台のヒロインを照らすスポットライトの様だった。
となれば、さしずめ彼女はジュリエットで、俺はロミオって事か…?
そんな馬鹿な。
俺は自分で思ってその考えを否定した。
遥か昔の悲劇の模倣のような情景が、今ここにある情景と似つかわしい訳が無い。

「…なんでロミオとジュリエットが悲劇なのか解る?」
「え…どういう……」
彼女があまりに俺の考えを見透かしたように言ったので、狼狽してしまう。
「それで…解る?」
「まぁ、何となくは解るが…俺は一度も原作を読んだことが無いからな…」
正直な感想を述べる。
物語なんてそんなものだ、誰もが表面上のことしか知らない。

「それは、悲劇のために用意された舞台だったから…」
「……悲劇?」
彼女は不思議な笑いを浮かべながらも、話を続けた。
「不自然な関係の二つの良家…愛し合う男女……
 ドラマティックと言うには陳腐過ぎるほどに物語が進んでいくから
 あの物語は悲劇なのよ」
「陳腐って事は…いくらなんでもないんじゃないか?」
「もし、ロミオが死ぬ理由が、早とちりでなはなくて、
 他のもっともらしい理由だったら、きっとあの劇は拍手喝采も起こらないでしょう…?」

「つまり、物語の積み上げてきたものを壊すような、陳腐な理由で
 ロミオが死ぬからあの劇は悲劇と呼ばれているんだわ…」
「結構、思想家なんだな…」
「まぁ、ただのうのうと生きているわけじゃないって事を
 証明したかっただけ。
 これも、若気の至りってやつかな……」
「若気の至りね…」
それは達観と呼ぶべきだろうか、それとも大人になろうとしている気持ちと
言うべきだろうか…
どちらとも取れない彼女の言葉に俺はただ耳を傾けていた。

「それで、話を続けていいかしら…?」
「…まだ続きがあるのか?」
「これは前置きでしかないもの、本筋はこれからよ」
時計の針がくるって逆に回っているように思えた。
それほどにこの空間は不自然に支配されていた。
「私たちに起こり得る悲劇って、あると思う?」
「…悲劇は悲劇だろ?
 別に起こらないとは思わないけど……」
「それはどうかしら…」

「たとえば財布を落とすとか、学食のパンが買えないとか…
 俺にとって起こり得る悲劇ってやつだな」
「あははは、まぁ確かに悲劇かもしれないけど…
 今は違ったニュアンスの悲劇の話」
「…違ったニュアンス?」
 彼女は難しい理論を語るように手のひらを広げて見せた。
「たとえば、あなたが学食のパンを買えないがためだけに、
 餓死してしまう…とか。
 財布を落としてしまった事を恥じて自殺してしまう…とか。
 そういったニュアンスの悲劇」
「それは極論過ぎるんじゃないのか…?」
「話は極論になればなるほど、悲劇を起こしやすくなるわ。
 単純だからこそ、あまりに解りやすい感情に飛び込んでくる不幸だからこそ
 その物語が悲劇としての効能を増すの」
「そういうもんかね…」

「で、これも私の話の前置き…」
「長い前置きだな」
「前置きが長ければ長いほど、物語を壊す意味が出てくるって事よ…」
「…壊す?」
先刻から彼女の言葉に振り回されるようにオウム返しを繰り返してしまう。
とは言え、然程嫌な感じもしなかったのが不思議だが…

「仁村君は、幽霊って信じる…?」
「…だから先刻信じてないって言っただろ?」
彼女は何かを納得したように悲しい顔をした。
「もし、私たちのどちらかが幽霊だとしたら…
 それって悲劇じゃないかしら?」
突拍子も無いことを言う彼女の言葉に少し考えさせられる。
「…悲劇って言うよりは、喜劇じゃないのか?
 まぁ、インパクトはあるかもしれないがな……」

「もし、私がここに鏡を出すとするわね…
 それで初めて気づくのよ……
 あぁ、自分は幽霊だったんだ…って
 それは悲劇よね?」
「まぁそんなことがあるもんならな…」
 彼女は実際に鞄から手鏡を取り出した。
「おいおい、随分と用意のいいことだな……」
 彼女の行動のあまりの自然さに、何故か鼓動が早まる。
 理論を看破された学者の気持ちってのはこんな気持ちなのかもしれないな…
 なんて事まで考えてしまう。

「幽霊は鏡に映らない…
 ってことは、鏡を見るまではずっと気がつかないのよ。
 自分が死んでいる事にすら…ね」
「ホラー映画とか心霊番組の見すぎなんじゃないのか…?
 現実的に考えて、あり得るわけが無い」
「でも、言ったでしょ…?
 私は現実に見たものは信じることにしてるの」
彼女はそう言いながら、取り出した手鏡で自分の姿を映した。

「……あぁ!!」
「え……どうした…?」
彼女は鏡に映る自分の姿を見て驚愕の声を上げた。
「こんなところにニキビが出来てる…」
「…………」
「ってわけ、次はあなたの番よ…」
彼女は自分の身の潔白を晴らしたように、手鏡をもって席を立った。
「くだらない…そんな事に何の意味があるって言うんだ」
「…いいじゃない、これは余興よ。
 物語を盛り上げるための前置き」

彼女は俺のそばまで来ると、手鏡を俺に手渡した。
「さぁ、どうぞ…」
俺は彼女から受け取った鏡を決して持ち上げようとはしなかった。
…こんな事に何の意味がある?
俺は彼女の話術にかかっているだけだ。
そんな気持ちばかりが先行して、何故か鏡を見る決心を鈍らせた。
「どうしたの…怖い?」
「ば…馬鹿言うなよ、こんな事怖いわけ……」
怖いわけ無い。
それが俺の正常な時の本心だ。
だが…今は……

彼女の視線が重圧のように圧し掛かる。
こんな何でもない事なのに、鏡を持つ手が震えた。
事実は見なければ解らない。
どんなに決まった事象だとしても、誰かがそれを確認するまでは、
物事は確証し得ない。
知ってるさ…解ってる。
俺は恐る恐る、手鏡で自分の顔を映した。

「…………!」
「……どう?」
「…あまりに普通すぎる現実に驚いた」
「そう、それが事実って事ね」
俺は彼女に手鏡を返した。
「結構ドキドキしたでしょ?」
「あぁ、結構な」
彼女の話術にまんまとはめられたようで、俺は情けなくなった。
そう、現実は現実なんだ。
何も不思議なことなんて起こりはしない…

「で、こんな事させて何が面白かったんだ?」
「面白くは無いけど、一つ確証が持てた…」
「何だよ、自分の話術の狡猾さにか…?」
彼女は俺の言葉に首を振って見せた。
そして、俺の目をまじまじと見て言った。
「幽霊は、鏡に映る…」
「……は?」
俺はあまりに意表をつかれた彼女の言葉に間抜けな声を出してしまう。

「幽霊って…俺の事か?」
俺のあまりに間抜けな質問に、彼女は首を縦に振った。
「あのな…大体何をもって俺が幽霊だなんて言うんだ。
 ちゃんと足だってある…」
確認するようにわざとらしく下を向く。
馬鹿馬鹿しいとは思ったが、ちゃんと足はくっついていた。
「だって、私見たもの……」
「見た…何をだよ……?」
彼女は少し考えるような素振りを見せると息を呑んで言った。

「あなたが死ぬところ…」
「俺が、死ぬところ?」
いちいち言葉を返すのも滑稽だと思った。
こんな時間に何を聞かされるのかと思えば……
「馬鹿馬鹿しいにも程がある…
 俺はこうして生きているじゃないか……」
「えぇ…あなたは生きているわ。
 こうしてここに存在しているし、私と会話してる…」
「じゃあ、なんで死んだなんて…」

「だから、あなたは幽霊なのよ…
 私は見たものは信じるわ。
 あなたが死んだと言う情景も信じるし、今こうして話してる情景も信じる。
 だから、あなたは幽霊なのよ……」
「あのな…くだらない妄想に付き合ってやる優しさは俺には無いぞ……」
「妄想なんかじゃない、これはれっきとした現実。
 今ここにある事実よ…」
「じゃあ証明してみろ、どうして俺が死んだんだ……?
 それをどうやって証明できるんだ?」
俺はあまりに自信有り気に言う彼女の言葉にむきになった。

「あなたが死んだのは5日前…
 朝だから…登校の途中ね……その時に車に轢かれたの。
 私は目の前で見てしまったし、他にも何人か見てた人が居たわ…」
「…そんなことがあるわけ……」
「先生が次の日に言っていたわ…黙祷もした。
 お葬式にも出席したし、お焼香もした。
 ほら、出席簿の名前だって、黒く塗りつぶされてるじゃない…」
俺は見せ付けられた現実に絶句した。
「何の冗談だよ…」
「これは冗談なんかじゃないわ、事実なのよ」
彼女は俺の顔を振り切るように俯いてしまう。

「じゃあなにか…今ここに居ると思っている俺は実は死んでいて、
 死んだことにすら気づいていない愚かな幽霊だと……?
 それは、さぞ滑稽な悲劇だな…!」
「でも現実に、こんな時間になってもあなたは教室に残っているじゃない。
 それは帰らないんじゃない…帰るところが解らないから……!」
「別に俺にはちゃんと帰る家だってあるし、帰る事だって出来る…!」
「じゃあ帰ってみなさいよ!
 私がその様子を見ていてあげるわ…!」
彼女の自信満々な言い方に、俺は心底苛立った。
「あぁ解ったよ!
 帰ればいいんだろ、帰れば……!
 そこで見てろ、俺は家に帰る」

俺は机の横に提げたままの鞄を手に持つと、彼女の目を気にしないように
教室の扉をくぐった。
「……………」
そして、間もなく再び教室に戻る。
「…どう?」
問いかける彼女の言葉に俺は息を呑んだ。
「あぁ、一瞬本当に自分が幽霊なんじゃないかと思っちまったよ。
 やっぱあんたの話術って凄いな……」
「…でしょ?
 二人しか居ない空間では、大衆的な意見がない分、本当の事実を見失いがちになる…
 身をもって体験できたでしょ?」

俺は手に提げた鞄を机の上に置くと、彼女に尊敬の眼差しを向けた。
「あ〜あ、でも本当に幽霊に会ってみたいわ…
「会ってどうするつもりなんだよ…?」
「美空ひばりさんが元気かどうか聞いたり出来るじゃない?」
「あのな…多分霊界コンサートとか無いと思うぞ」
「え〜無いの?」
彼女は心底残念そうに呟いた。

「もう、こんな時間なのね…」
夕日が沈み、教室を陰りが覆う。
「そろそろ、帰るか…?」
「そうね…無駄な時間すごしちゃったみたい」
「あ、そうだ、出席簿の落書き消しておけよ。
 明日先生に怒られるぞ…」
「あぁ、いいのよあれは……」
「どうして…?」
「だって、あれ書いたの私じゃないもの」

現実は観測者が居るからこそ事実となり得る。
観客が居るからこそ、悲劇は悲劇となるって事。
つまりはそういうことなのよ…


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